- 2022年0月
- 高岡観光ボランティアガイド やまたちばな
石垣 見やすくなりそう
朗唱の会に向け動画撮影
7月23日(土) 高岡観光ボランティアガイド《やまたちばな》全員で10月に開催される「万葉集全20巻朗唱の会」に向け動画撮影を行った。あいにくの雨模様であったが全員元気にそれぞれのスタイルで与えられた歌を朗唱した。
(一名」写真なし)
「万葉集全20巻朗唱の会」は高岡万葉祭りのメインイベント。
万葉集全4516首を3昼夜かけて全国から集まった2千人以上で歌い継ぐ。コロナの関係で昨年は動画参加のみだったが今年は水上舞台参加と動画参加の2本立てで行われる。
動画参加者の皆さんお疲れ様でした。
カメラマン関元君ありがとうございました。
2022.7.23
高岡観光ボランティアガイド やまたちばな
本保澄雄
新宿 中村屋
先日、食品スーパーサンコー木津店で新宿中村屋の袋入りカステラを見つけた。1個100円(税別)
新宿中村屋さんと言ってもわかる人は少ないであろう。
1901(明治34年)相馬愛蔵、黒光(星良)夫婦が新宿で創業したパン屋さんである。
買い取った店が繁盛店だったので店名「中村屋」をそのまま引き継いだ。これが新宿中村屋である。
相馬愛蔵?、相馬黒光(星良)? 誰かな? これも思い当たる人は少ないだろう。
相馬黒光のほうは皆さんご存じのはず。そう、高岡市立博物前前、「日本のロダン」と称せられた荻原碌山のブロンズ像「女」は相馬黒光をモデルにしたものだと言われている。
黒光は文学や芸術を愛する才気あふれる女性。
碌山は相馬黒光の影響で芸術家を目指した。
アメリカ、フランスなど海外で絵画や彫刻を学び1908(明治41)年帰国。
新宿にアトリエを構え彫刻家としての活動開始。
1910(明治43)年、相馬黒光をモデルとしたブロンズ像「女」の製作に没頭。精魂をを使い果たした。
「女」が完成した朝、碌山はアトリエで血を吐いて死亡した。
「女」は碌山の死後,、文展に出品され見事3等賞(彫刻での最高賞)に輝いた。
高村光太郎 詩 荻原守衛
単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあった、 坑夫、文覚、トルソ、胸像
人なつっこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこにいた。 新宿中村屋の店の奥に。
・・・・・・・(中略)・・・・
四月の夜更けに肺がやぶけた。新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして
荻原守衛は血の塊を一升はいた。 彫刻家はさうして死んだ。-日本の底で。
2022.6.28
高岡観光ボランティアガイドやまたちばな
本保澄雄
与謝野寛・晶子と高岡古城公園
北日本新聞によれば本日(5月29日)は与謝野晶子が没した日とか。与謝野夫婦は昭和8年に高岡を訪ねている。
10月31日に夜行で上野駅を発ち、宇奈月(2泊)、富山市(2泊)を経て11月5日高岡市へ到着。高岡で1泊。後金沢等を経て11月13日に東京へ帰着。
高岡での行動。
11月5日 延對寺旅館で小休息 →高岡古城公園(図書館で二人が講演)→金屋町(金森氏の工場見学)→太師殿で晩餐 → 延對寺旅館
11月6日 県立高岡高等女学校で講演 →金沢へ
高岡古城公園では寛1首、晶子5首残した。
寛 「高岡の 城の公園 しづかなる 水と紅葉を 路めぐりゆく」
晶子 「高岡の 古城にのぼり 連山の 秋の雪見る 友の法師と」
「紅葉散る 朝暘橋を わが超えて 丘にいづれば 白し立山」
「館など さもあらばあれ 海越えて 羅津にたいす 本丸の松」
「越の城 大伴卿の 築かねど 奈良の御代のみ 語らるるかな」
「越中の 高岡城の 園きよし 松とかへでと 立山の白」
高岡滞在中に 寛は7首、晶子18首 残した。また後日高岡市立高岡高等女学校の校歌を作詞。
高岡古城公園の寛・晶子の歌碑 (写真は『高岡古城公園ガイド』から)
2022.5.29
高岡観光ボランティアガイド やまたちばな
本保澄雄