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2021年0月
高岡観光ボランティアガイド やまたちばな

病院の窓から 守山城跡(城山)&雲

5月26日から6月3日までの9日間、厚生連高岡病院に入院していた。

毎日守山城跡(城山)と二上山と、時には流れゆく雲を眺めていた。

                  守山城跡(城山)二上山・雲

 

守山城は高岡開町の祖・前田利長が13年間在城した城。そして加賀前田家3代・利常が養育された城である。

生母と引き離され、長種夫婦によって養育された利常は、この雲を一体どういう気持ちでを眺めていたのだろうか?

幼い目に涙をいっぱいためて母親を思い出していたのだろうか?

また前田と戦った神保氏張(守山城城主)はどのような気持ちで雲を眺めていたのだろうか?

立身出世(青雲の志)を夢見てこの雲を眺めていたのだろか?

前田氏との戦いに敗れた神保一族は佐々成政に従い九州へ、その後徳川家康の家臣となり出世し江戸で土地を与えられた。

 (これが現・神田神保町)

 

 

  おうい 雲よ

  ゆうゆうと

  馬鹿にのんきそうじゃないか

  どこまでゆくんだ

  ずっと磐城平の方までゆくんか    山村暮鳥

 

磐城平を私は小丸山城に置き置き換えてみた。

小丸山城は前田利家が能登で建てた唯一のお寺長齢寺がある。そこには父利家と母まつの銅像が建っている。

また利家、利長の石廟もある。

雲は高い所から守山城跡眺め、次に右手に高岡城・富山城を眺め、そして次に左手に金沢城を眺めゆっくりと長齢寺にまで行ったのであろうか?

もし雲が利長だったとしたら高い空から利家・まつの銅像になんと話しかけただろうか?

「お母さーん」と叫んだのではないだろうか?

 

   2021.6.7

                             高岡観光ボランティアガイ やまたちばな

                                本保澄雄

 

 

前田利長公 銅像

高岡古城公園本丸広場北側に前田利長公銅像がある。

「銅像は横田町の米 治一(こめ じいち1896~1985)の作で、昭和50年(1975)に建てられました。利長が慶長14年(1609)9月13日、家臣団434名を従え入城した姿を表したものです。長い兜は銀鯰尾形(ぎんなまずおなり)兜と呼ばれ、利長はなまずの力にあやかり威勢を示すために愛用したと言われています。」(『高岡古城公園ガイド』より)

この兜、現物は富山市郷土博物館に展示してある。

兜には作者の春田勝光の銘が刻んである。春田勝光は奈良で栄えた甲冑師の一派で、この流れをくむ人々が加賀前田家の兜を作っていた。兜は戦場における武将のトレードマーク、一種のファッションだった。

  重さ約4㎏ 高さ約127.5㎝。

 鉢周り(頭の部分・ハチマキの鉢と云えばわかりやすい)とシコロ(首の部分)は鉄、長い上の部分は木製。銀を付けた。

同じ形の兜を蒲生氏郷が使っていた。一説には利長公は蒲生氏郷からこの兜をもらったとか。

  利長と蒲生氏郷とはアイムコという関係。(利長正室・永姫と蒲生氏郷の正室とは姉妹。ともに織田信長の娘。)

太刀は郷義弘作である。稿本越のした草に「瑞龍院利長公の御腰物則義弘にして今猶高岡の宝蔵に納之奉る也。」とある。

ぶら下げているのでこれは太刀である。刀(正確には打刀)ではない。

  太刀。南北朝時代以降。馬の上で戦ったので太くて長い刀が必要だった。紐でぶら下げる。展示するときは刃を下にして展示

  刀。 戦国時代末期 太刀に比べ軽くて短い刀。腰の帯に差す。展示するときは刃を上にして展示。

 郷義弘 魚津の在住 正宗十哲の一人、相州正宗、粟田口吉光とともに天下三作と呼ばれた。

     2~3年前、富山県水墨美術館で開催された「徳川秘宝展」に展示してあった。

馬 わたり黒 蒲生氏郷の家臣渡平八郎からもらったので「わたりくろ」という名前。後に加藤清正に渡ったとか。

 

2021.5.25              

                            高岡観光ボランティアガイドやまたちばな

                                  本保澄雄

 

時は春

   時は春 

   日は朝(あした) 

   朝(あした)は七時 

   片岡(かたおか)に露満ちて 

   揚雲雀(あげひばり)なのりいで

   蝸牛(かたつむり)枝に這い

   神、そらにしろしめす       (しろしめす は お治めになる という意味)

   すべて世は事もなし

       ロバート・ブラウニング  上田敏 訳

 

有名なロバート・ブラウニング(1812~1889) 上田敏訳 の詩の一節である。

   (この詩は確か高校か中学の国語の教科書に出ていました。)

 

豊かな自然、そして神様が空におられて世界をお治めになっている。世の中すべて何事もなく平穏無事である。

この時代、なんと平和の時代だったのだろうか。

今は世界中どこも「コロナ、コロナ」で大騒ぎ。なんともうらやましい時代であった。

 

コロナの影響で《やまたちばな》へのガイドの依頼も今年になって僅か5件。このうち2件は既にキャンセルとなってしまった。実行したのはわずか2件。あと1件は5月27日の予定。これもどうなるかわからないわからない状況。

1日も早くコロナが収束してほしい。

 

私は6月2日に1回目のコロナ予防接種の予定だったがやむを得ぬ事情でキャンセル。

次回の予約に期待することになってしまった。

繰り返しになるが1日でも早くコロナが収束することを願うばかりである。

 

 

2021.5.17

                          高岡観光ボランティアガイド やまたちばな

                                 本保澄雄

 

 

 

                   

樒(しきみ)、多羅葉(たらよう)、榛の木(はんのき)

樒(しきみ)、多羅葉(たらよう)、榛の木(はんのき)

この3種類の樹木はいずれも高岡古城公園の中にある樹木である。

 

・樒(しきみ)1本 小竹藪広場 休憩所の南側。死者の枕もとのに飾られた。お寺さんなどに植えてある。

                   小竹薮の 樒(しきみ)

 

・多羅葉(たらよう)17本 中の島他 葉の裏側に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用。お寺さんなどに植えてある。

 (葉に字を書いたのでは《ハガキ》の語源となった。現在でも切手を貼ればハガキとして使用できるそうだ)

                  中の島の 多羅葉

               文字が書かれた多羅葉のは(パソコンより)

 

・榛の木(はんのき)4本 中の島←→池の端の堀際他 死者を焼くのに使われた。

               池の端堀の水面にせり出した 榛の木

 

     本数は 平成23年5月 都市整備部花とみどりの課 高岡古城公園樹木調査結果 より

     樹木の説明はパソコン より

 

この3種類の樹木の共通点はいずれも人の死に関係している樹木であるということである。

この3種類の樹木が公園内にあるということは単なる偶然か、それとも何か人為的な働きがあったのだろうか。

もし何か人為的な働きがあったとすればそこにはどのような背景があったのか?いつ植えられたのか?それは利長築城に関係があるのだろうか?

築城時、工事ミスで死者がでた。また、築城後城内で死者が出た。

死者の枕もとに樒を飾り、死者を焼くためにハンノキを用いた。多羅葉に書いた経文は死者と一緒に燃やし死者を弔った。このためにこれらの樹木が植えられたと考えるのは考えすぎだろうか?

興味は尽きないところである。

 

2021.4.27

 

                    高岡観光ボランティアガイド やまたちばな

                             本保澄雄

高岡古城公園で健康ウオーク

4月14日(水) ややはだ寒い中、高岡古城公園で令和3年度第1回「健康ウォーキング教室」が行われた。

ヘルスボランティアと一緒に楽しく身近な自然、歴史、文化の見どころを歩くというものである。

野次馬根性で早速参加。約1時間公園内を散策。参加者は15,6名程度。あまり天候が良くなかったので当日キャンセルもあったようだ。普段はあまり通らない本丸西側(池の端側)犬走り(散策路)なども歩いた。

 

 

               小竹薮広場 密にならないように離れて集合

 

           小竹薮広場 サクラ(ソメイヨシノ)は完全に散ってしまった

 

                    朝暘の滝前で一休み

 

 

         2021.4.14

 

                            高岡観光ボランティアガイド やまたちばな

                                本保澄雄