ボランティアのことを、もっと知りたい。NPO・市民活動のことを知りたい。そんなときは高岡市民活動情報ポータルへ。

高岡市民活動 情報ポータルサイト サポナビたかおか

高岡市市民生活部共創まちづくり課 市民活動相談窓口 0766-20-1519

時は今 5月28日 

「時は今 5月28日」 と言っても令和元年、今年の話ではない。

今から430年以上前、天正10(1582)年の5月28日のことである。

 『ときは今、天(あめ)が下しる 五月哉(さつきかな)』 

天正10(1582)年5月28日、愛宕山西坊での連歌会で明智光秀が吟じた発句(ほっく)である。

この句には重大な意味が込められているという。つまり本能寺の変の予告である。

普通に解釈すると 「今の時期(梅雨の時期)雨がしたたり落ちていますよ」というくらいの意味。

明智光秀の謀反(むほん)の意味が込められているという説では

 「とき」は明智光秀の出身の土岐氏を表し、

 「した治(し)る」天下を治める、または下知(げぢ=命令を出す)という意味。

  今こそは土岐氏の一族である私(明智光秀)が織田信長を討ち天下を治める時だとの解釈ができる。というものである。

明智光秀決意の句である。 明智光秀は直ちに行動を開始した。

 

そして《本能寺の変》が起きたのは6月2日夜明け前。

信長は本能寺で光秀の謀反(むほん)を知り「是非に及ばず」

「下天(げてん)のうちにくらぶれば、夢まぼろしの如くなり」声高に敦盛(あつもり)のひとふしを唄い体を拭いた。

「これまでだ。御殿に入って腹を切る。首をとられるな。屍(かばね)を渡すな」

信長は燃え盛る火焔の中へ入っていった。

 

この時、我ら前田利家は柴田勝家、佐々成政とともに魚津で長年苦しめられていた上杉陣と戦いを繰り広げていた。

(魚津城の戦い)

そしてようやく勝利を挙げたのが6月3日。2日の「本能寺の変」で織田信長が死んだという知らせを受けたのが4日。織田軍

は急いで越中を撤退した。

前田利長・永姫織田信長の招きにより上洛の途中。6月2日京都瀬田にきたころ信長の横死を知り永姫を荒子へ逃げさせ、

自分は安土の前田屋敷へ入り弔い合戦の準備をした。

 

                   参考図書など 津本陽『下天は夢か』

                          山本謙一『信長死すべき』

                          北日本新聞社『富山のふるさとキーワード』

                          見瀬和雄『前田利長』

                          インターネット

 

2019.5.28           本保澄雄