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家臣の屋敷に火を付けた大名

 A市の市長が「家に火をつけてこい」と言って市の職員を怒鳴りつけたということが新聞やテレビで話題になっているが、戦国時代、激怒して家臣の家屋敷に放火し焼失させた大名がいる。

こんな乱暴な大名と云えば、皆さんが想像される通り織田信長である。信長の短気な性格を表すものとして下記の句がよく引用される。

    鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス     織田信長

    鳴かぬなら 泣かして見せよう ホトトギス   豊臣秀吉

    鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス    徳川家康

 

家臣の家屋敷に火をつけた事情はこうだ。

 

信長は安土に城を築き、一族や重臣たちの家屋敷を山腹に、馬回りや弓衆、小姓たち親衛隊は城下町に集住させた。

天正8年正月29日、弓衆の福田与一の屋敷から出火があった。弓衆の屋敷から出火したことは許しがたい過ちであった。

一屋敷からの出火が城下町全体を焼き尽くす危険もあったわけだから信長激怒したのも無理はない。

信長は、出火の原因はその家臣が妻子を尾張に置いた単身赴任であり、不慣れな生活が原因であったと断定した。

調べてみると弓衆で60人、馬回り衆で60人合計120人もの単身赴任者がいた。当時、単身赴任という考えはなく一家忠勤が求められていた時代である。

単身赴任をやめさせるため、前々築城地である尾張に妻子を置いていた全ての衆の私宅をことごとく焼き払い、竹木を伐らせた。

住む屋敷を失った女房たちは、とるものとりあえず大急ぎで安土へ引っ越したと言われている。

馬回りの井戸才介は妻子を安土へは越させず、勤務態度もよくない上に文書偽造などを行ったため1579(天正7)年、自害を命じられた。

その後、信長はこの事件の代償として、これらのものに対して城下町の南に新道を築かせ、それをもって許した。

                              参考書籍 岩波新書 千田嘉博『信長の城』 

                              インターネット  福田与一、井戸才助 他

 

ところで、前田利長は高岡城築城に際し、434名の家臣団をしたがえ高岡城へ入城したが、さて家臣団の家族はどうしたのだろうか? 富山城焼失は城下町からの出火から延焼したと言われている。そうすると家臣の屋敷も焼失してしまったのだろうか?  興味の尽きないところである。高岡古城公園のボランティアガイドになって以来ずっと持ち続けている疑問である。

 

チョット一休み 2月4日(月)は立春

・袖ひちで むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ    古今和歌集  紀貫之

   (そでひちて むすびしみづの こほれるを はるたつけふの かぜやとくらむ)

(夏の日に)袖を濡らして(手に)すくった水が(冬の間は)凍っていたのを、立春の今日の風が溶かしているのだろうか?

「袖ひつ」は夏の情景  「こほれる」は冬の情景 「春たつ」は春の情景

 歌の中にいくつもの季節を感じさせる単語を入れてい読み手にイメージさせるところがこの歌の最大の味わいどころとか

 

・瑞龍寺の豆まき。2月3日(日) 13:30~ 

  豆まきは瑞龍寺の年中行事の一つ。一般の方も参加できるそうです。

近隣住民がたくさん裏門から拝観料なしで入ってこられるとか。

豆は自分の年齢の数だけ食べるものとか。

後期高齢者の私にとってはたくさん食べられるので喜んでいます。(実際にはいきませんhが)

 

2019.2.3

                                  本保澄雄