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大相撲 貴景勝(たかけいしょう)が優勝

  大相撲九州場所は22歳の若武者貴景勝の優勝で終わった。三横綱の欠場する中、土俵を大いに盛りあげてくれた。

貴景勝(たかけいしょう)のは勿論「貴乃花」の貴、景勝(けいしょう)は、上杉景勝(うえすぎかげかつ)の景勝を音読みしたものだとか。

 

  ちょっと余談 貴景勝の名前の元となった上杉景勝について  

 

上杉景勝(うえすぎかげかつ)と越中  そして、高岡生みの親・前田利長

 

上杉景勝  上杉謙信の養子。謙信は生涯独身であり実子は無かった。このため二人の養子を迎えた。謙信急死の直後から二人の養子の間で家督争いが起こった。鰺ヶ沢城主の寝返りにより景勝が勝利(1578(天正6)年 御館の乱おたてのらん

謙信の死後、景勝の時代になっても越後勢の越中支配は続いていた。

これに対して全国制覇を狙う織田信長は上杉勢を討伐すべく柴田勝家、前田利家、佐々成政を越中に向かわせた。

 1582(天正10)年3月 織田方の連合軍(柴田勝家、前田利長、佐々成政)が上杉勢が立こもる魚津城を包囲。

         5月15日 魚津城救援のため、上杉景勝が援軍を率いて天神山城に布陣。

         5月26日 織田方の軍勢が信濃,上野(群馬)方面から越後へ進攻。上杉景勝は本拠地春日山城へ戻るため、松 倉城の軍勢とともに天神山城より越後へ撤退。魚津城が孤立

         6月 2日 本能寺の変が起こる 織田信長死去

         6月 3日 織田方の連合軍が魚津城を落城させる。上杉勢は全員が討死

         6月 4日 信長の死が知らされ、織田軍が撤退。上杉勢が魚津城を奪還。

上杉勢は織田方と魚津城で戦った。(「魚津城の戦い」または「小津城の戦い」)

6月3日、戦いは織田方の勝利に終わったが、織田方が勝利を収めたその翌日に織田信長が本能寺の変(6月2日)で討ち死にしたという情報が入った。織田方は急いで領国ヘ帰還。魚津城は再び上杉方に移った。

 

この時、高岡生みの親・前田利長は?

1581年(天正9)12月 信長の五女永姫と結婚

1582年(天正10)5月28日 利長は、信長の招きにより永姫とともに京都へ向け出発した。

           6月2日  近江瀬田で信長の横死の知らせを受け永姫を尾張荒子へ逃れさせ、自らは5人の家臣を連れ安土の前田屋敷に入り弔い合戦の準備をした。

 

信長の死は北陸の情勢を大きく変えた。信長によって所領を奪われた畠山氏の旧臣が越後から帰り、本願寺衆徒と結び石動山荒山に砦をを構えた。上杉景勝が援軍として参陣した。

上杉勢に領国の一部を奪われそうになった利家・利長は荒山に攻撃をかけて、これを鎮圧した。

 (6月26日 石動山・荒山の合戦  石動山=石川県鹿島町、七尾市、富山県氷見市にまたがる標高565mの山)

 

そして家康は?

本能寺の変の半月くらい前に信長の招きで安土城を訪問。(信長は安土で家康を暗殺する計画だったという説も)

安土城を終えて 家康は堺にいた。本能寺の変の報に接し、伊賀を越え伊勢国から船で岡崎城へ逃げ帰った。(神君伊賀越え)

 

そして秀吉は?

中国地方備中高松城で毛利方清水宗治と戦っていた。本能寺の変に接し、直ちに京都へ帰る。約200kmを僅か10日で走破。(中国大返し) 

本能寺の変は秀吉が明智光秀と組んだ出来事だったという説。またこの報に接し黒田官兵衛が秀吉に「好機到来」と耳打ちしたという話など諸説あり。

 

以上貴景勝のしこ名から、極めて大雑把に上杉景勝、前田利家・利長親子、家康、秀吉を振り返ってみた。

高岡古城公園ガイドとは直接関係はないが、ガイドの時の《話のタネ》になればよいという思いから。

 

前回クイズの答え  動物園のクマは冬眠しないそうです。餌が与えられるので冬眠の必要はないそうです。

 

                                  やまたちばな     本保澄雄